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1/18に小ホール講演会 『考古学と私』 が開催されました

平成26年1月18日、愛媛県埋蔵文化財センター理事長の前園實知雄様(S40卒)をお招きし、 『考古学と私』の演題で小ホール講演会が開催されました。
前園先生は、他にも多くのお仕事をご兼務され、東温市の豊山派法蓮寺のご住職でもあられます。誰でも理解しやすいようにとのご配慮で、論文や著作の使用は避け、これまで掲載された新聞記事を 照会しながら、これまでの遺跡発掘のリアリティとその成果を、発掘当事者のお立場から活き活きと 語って頂きました。
聴講者の関心も高く、ご講演の後の質問も数多くありましたが、先生の具体例を挙げながらのご回答に、聴講者一同、感服させて頂きました。

【前園實知雄様 略歴】
1946 東温市上林 法蓮寺にて生まれる
1965 愛媛県立松山東高卒業
1969 同志社大学文学部文化学科文化史学専攻卒業、奈良県立橿原考古学研究所入所
1981 ~1983年まで、中国北京語言学院・北京大学に留学
1996 法蓮寺住職
1998 橿原考古学研究所資料室長を経て奈良芸術短期大学教授
2000 中国社会科学院古代文明研究センター客員研究員
2012 公益財団法人理事長

【主な発掘調査】
斑鳩町藤ノ木古墳・法隆寺、奈良市太安萬侶墓・唐招提寺・東大寺、吉野町宮滝遺跡、天川村大峯山寺、生駒市忍性墓、桜井市脇本遺跡、他

【著書紹介】(調査報告書・論文を除く)
『斑鳩に眠る二人の貴公子 藤ノ木古墳』(新泉社)、『奈良・大和の古代遺跡を掘る』(学生社)
、『吉野 仙境の歴史』(共編・文英堂)、『藤ノ木古墳』(共・読売新聞社)、『日本の古代遺跡
・奈良北部』(共・保育社)、『シルクロードの文明と興亡』(共・雄山閣)、『大和古墳めぐり』
(共・京都書院)、他

【ご講演内容】  ~~ 『考古学と私』 ~~
伊予の道後は古代から名湯で知られ、現在の道後温泉本館隣に温泉の湧く池があったらしい。古代の 日本には4箇所の温泉があり、古文書に温泉の表記が10件見られるが、その内3件が道後であり、 特に有名であった。
斉明天皇が伊予の国に2度訪れていることも高貴な土器の出土などから判っている。ある時は『熟田津(にきたつ)の歌』で有名な額田王を連れて伊予に来ている。聖徳太子は伊予に来たかどうか不明といわれている。
温泉郡という一般名詞が、地名として固有名詞化した例は他に見ない。温泉郡の名前は残して欲しかった。また東温市は温泉市と名付けて欲しかった。
平成15年に国指定史跡に指定登録されている久米官衙遺跡群(くめかんがいせきぐん)は、7世紀前葉から平安時代の長期間に亘る当時の官衙関連遺跡が残存しており、この遺跡群の価値は日本唯一のものとして極めて貴重なものである。
歴史の口頭伝承は200~300年が限界である。歴史を記述した現存の文献は、その時代の勝者や為政者の遺物に過ぎず、政治的な編纂がなされていることが多い。その点、埋蔵文化財は歴史の物証として、考古学的、歴史的な事実検証のための物証として高い価値を持つ。吉野ヶ里遺跡の発見発掘で佐賀県が元気づいたように、考古学は、古代の歴史的事実を特定することで、その地域を元気付ける学問でもある。
【講演次第】 (詳細は添付の新聞記事参照)
1. 考古学との出会い
2. 橿原考古学研究所へ
3. 太安萬侶墓の発掘調査
4. 中国への留学
5. 藤ノ木古墳の発掘調査
6. 最後の発掘調査 (唐招提寺)
7. 奈良芸術短期大学へ
8. 中国 青海路の調査
9. 愛媛県埋蔵文化財センターでの仕事
10.今後の展望

【講演要旨抜粋】 (詳細は添付の新聞記事参照)
■ 橿原神宮では縄文遺跡「橿原遺跡」が見つかっている。また、飛鳥の高松塚古墳の壁画には飛鳥美人と呼ばれる唐風の人物群像が描かれており、中国や朝鮮からの文化の伝承が判る。遺跡や埋蔵文化財には古代の文化の有様を研究するための貴重な物証が存在する。
■ ヤマトタケルはよく知られているが、実はワカタケル(雄略天皇)であったとも言われている。万葉集の巻頭の歌を詠んでいることから、その可能性が高い。
■ 墓は政治と密接に繋がっており、古代の日本では盛んに古墳が造られた。日本と百済は親交があったため、百済には日本の古墳文化が伝わり、韓国南西部に多くの古墳が見られる。その後、日本では、社会主義国家化が進み、中央政府の土地没収から大型の墓を作る土地が無くなり、古墳が造
られなくなっていった。
■ インドは火葬、中国は埋葬で墓有り、日本は火葬で墓が有る等、埋葬方法にも地域性があり、日本の埋葬文化はそれらの合体でもある。
■ 昔はお坊さんに超能力があるとされ、特に優秀なお坊さんは政権が代わる度に拉致され、主権者の政治的利用対象となった。自国を守るために大いに利用されたことから、仏教が広く浸透普及する結果となった。
■ 1300年前に編纂された古事記の編者でもある太安万侶の火葬墓から、銅版の墓誌やアコヤ貝真珠が昭和54年に発見された。
■ 中国の文革中は、国を代表するような考古学の偉大な先生までもが便所掃除を強いられるなど、不当な扱いを受けていた。 文革の後、10年間は海外からの留学生の受け入れがなかったが、1979年に受け入れを再開、1981年から2年間、中国北京語言学院・北京大学に留学することができた。
■ 藤木古墳の石棺調査では8ミリの穴を開け、5ミリのマイクロスコープ使用して開けた穴から内部を確認、その後、3年間の調査保留の後、1988年、大掛かりなジャッキで2トンの石棺の蓋を開封した。1400年の封印後、初めてその内部を除いた者として、埋葬された人物への調査にも熱が入った。
■ 唐招提寺の建立は、井上靖の小説「天平の甍」のイメージが先入観となり、天平年間(729~749)と考えられていたが、天平時代の瓦は造りが精緻であり、時代が下るほど造りが雑になることが判っていたことから、唐招提寺の瓦のデザインは天平時代、しかしながらその造りはもっと後世の建立の可能性が高いとの見解を持っていた。同時に、木材の標準年輪曲線を適用すると±1年の精度で伐採年の特定ができることから、唐招提寺建立に使用された約2万本の木材の内152本を抽出して調査、その結果、781年の伐採木であることが判明、建立は天平以降との説の根拠となった。
■ シルクロードの調査で青海省を訪れ、3年間かけて綿密な調査を実施、正確な地図を作成、その後の調査活動に貴重な地図データを残すことができた。
■ 中国・韓国・北朝鮮・日本での学術シンポジウム等ありえない状況の中、考古学に関する非公式シンポジウム開催を実現できた。

【報告者 ご講演後記】
前園先生は、松山東高をご卒業後、同志社大学に進学され文学部文化史学をご専攻されました。大学の授業で、考古学の大家、森浩一先生の授業に触れ、学問の面白さに夢中になり、古墳時代がどう終焉したかなど、考古学に強い関心をお持ちになったことが考古学の道に進む転機となりました。研究では遺跡や出土物の調査・研究に傾注され、ある時は反骨の学者として、調査方法などに異論を唱えられることも多かったとのことです。
後年、お父様が他界されたため、1996年に研究所を退職して住職に就くことに決めました。しかしながら、それまでの先生の研究への熱意と秀逸なご実績もあり、月・水・金の奈良での勤務を、特例扱いで月・火・水の勤務にして頂き、無事、東温市でのご住職も兼務できるようになったとのこと
。実は、大学院の受験に失敗された時、僧職のお父様は仏教大学に入って欲しかったけれども、その後も変わらず考古学を続けることに援助を続けて頂いたそうで、そんなことから、僧職に就かれる事に全く悔いは無かったそうです。
私生活では、1981年から2年間の中国留学で知り合ったフィンランド人の奥様とご結婚され、奥様は上林で近所の子供さんたちを集めて英語塾を開かれたこともあったりと、地域への貢献もされておられます。
現在は愛媛県埋蔵文化財センターの理事長の要職に就かれていますが、愛媛では長期的視点で地域の埋蔵文化財に関わる専門家の関与が少なかったこともあり、「東の茨城、西の愛媛」といわれるほど遅れているとのこと。その遅れを取り戻すべくこの分野での変革を目指したい、それには純粋に学問的視点で意見を言っていきたいとの熱意から、この職をボランティアでお引き受け頂いているとのこと。是非、ご専門の考古学を通じて、愛媛を一層元気にして頂きたいと思います。 
 以 上 
 報告者: 事務局長 河崎定信(S45年卒)
  
 河崎事務局長の前園先生紹介  前園先生
 
講演会のあと、前園先生を囲んで (昭和40年卒同期の方々、上野支部長、河崎事務局長)

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